人々の手本になれるよう、常に自らを律し、用心深くあることを心がけよう。そうでなければ人はついてこない。自分より低い立場の意見に積極的に耳を傾け、自らの身を改めるようにするべきだ。
血筋や家柄で評価するのではなく、あくまで能力にしたがって他者を評価するべきである。優れた人材がいないと嘆いてはならない。人材は自ら進んで発掘するものである。
仁義をもって、人々の生活向上を第一に考えた政治を行うべきである。また、法は天下のものであるので、君子であってもその尊厳を守らねばならない。
人の上に立つ者の取るべき態度
常に自らを律し、用心深く
太宗は、上に立つ人物が天下を安定させるには、とにかく自らを律し、慎重に行動すべきだと考えていた。我欲に溺れてしまっては、肝心の政治に身が入らなくなり、人民のことを考えることができなくなってしまう。やがては、臣下や人民からの尊敬を失ってしまうことになるだろう。
太宗が即位して四、五年経つころには、すでに安定した治世が実現されるようになったが、太宗はそうした時こそ、慎重さが要求されると考えていた。その姿勢は、「国を治める時の心構えは病気を治療するときの心がけとまったく同じである。病人というのは、快方に向かっているときこそ、いっそう用心して介護にあたらなければならない」という言葉に端的に表れている。泰平の世の中だからこそ、常に気をゆるめず注意深く行動する必要があるというわけである。
太宗は、国を治めることを、木を植えることにもたとえている。隋の煬帝(ようだい)は、美女や宝物を集めて奢侈にふけり、それでも尽きない欲に動かされて軍事行動を起こした。結果、人民は反抗し、国は滅んでしまった。上に立つ者が身を慎んでこそ、人民の暮らしは安定する。それは、根や幹がしっかりした木の枝葉が、自然に茂るのと同じことなのである。
臣下の進言に耳を傾ける
治世の初めのころ、太宗は側近のひとり、魏徴(ぎちょう)から、「明君が明君たるゆえんは広く臣下の進言に耳を傾けること」と言われている。そうすることで、一部の側近に惑わされずに、下々の状況を理解できるからだという。
しかし往々にして、危機に瀕している際は優れた人物の意見に耳を傾けようとするものの、いざ国が安定しはじめれば心にゆるみは生じてしまうものである。太宗は、臣下たちのあいだに疑惑が生まれ、思っていることを言い出せないという状況は必ず避けねばならないと考え、臣下から常に忌憚なき意見を聞くように努めた。また、有用な進言を申し出た者に対しては褒美を取らせている。
また、臣下が諫言しやすいよう、君主は配慮する必要がある。太宗は臣下に対し、叱責を恐れることなく、意見を申し出るように伝えていた。しかし、本意ではないにせよ、太宗自身も臣下からの諫言を抑制・抑圧するような態度や言動を取ってしまうこともあった。だからこそ、そういった自らの誤りを指摘してくれる臣下をことのほか重用したのである。
同時に、臣下たちにも、部下の諌言を受け入れられなければ上司にも諌言できないと言い聞かせ、たとえ自分と異なる意見でも、部下たちからの諌言を拒否しないように伝えた。太宗が理想としたのは、立場に関係なく、誰しもが自分の思った意見を誰にでも伝えることができる環境であったといえる。
人材をどのように見つけ、育てるか
優れた人材は自ら発掘するものである
秀でた指導者になるためには、優れた配下を側に置くことは必要不可欠である。太宗は徹底的な能力主義者であり、有能な人物であれば、血筋や立場など関係なく登用するべきだという考えを持っていた。たとえかつて敵対していた者であっても然り、である。実際、側近に召し抱えた魏徴は、もともと敵陣営に属していた人物だったが、有用な進言をすると判断するやいなや、すぐさま自らの配下に置いている。反対に、たとえ皇族であっても功績がない場合には躊躇なく格下げを行っている。とはいえ、いくら能力主義といえども、悪人を登用することは危険であり、特に平和な時代であれば人格面も重視するべきだとも語られている。
そんな中、優秀な人材登用を促されてもなかなかうまく見つからないと嘆く臣下もいたようだ。しかしそのような臣下に対し、太宗は「そんな時代にも、人材はいると思う。ただ、われらのほうがそれに気づかないだけのことではないのか」とこれを諌めた。
ちなみに、唐の時代においては、人材を登用する際は他者からの推薦が慣例であった。太宗は一度、自己推薦制の導入を考えたことがあったが、臣下の魏微に諌められてしまった。彼によると、自分を知るということは難しく、とかく自己を過大評価してしまいがちなものである。自分の能力を自慢する、売り込みばかりが活発になってしまうので、自己推薦制はやめておいたほうがよいというわけである。
後継者の育成には細心の注意をはらう
太宗は後継者となる子息たちの育成についても非常に高い関心を持っていた。
子どもたちは養育係次第で善くも悪くも育ってしまうと認識していたため、正直で忠信深い者に担当させるべく、推薦を募った。さらに、養育係の者が特定の子息に対して情が移らないよう、1回の任期を4年までに制限するという気配りも欠かさなかった。
太宗自身も、多忙な中でも時間を見つけ、太子に教育をほどこそうと努力した。今食べている食事は人民が汗を流して作ったものなのだから、大事な農繁期に人民を使役してはいけない。馬は、人の代わりに働いてくれるのだから、痛めつけてばかりでなく休息をとらせてやらなければいけない。といったように、太宗は生活の機会をとらえては実地教育に努めたという。
安定した社会を創りあげるために
仁義をもって、人々の生活向上を目指す
太宗がこのように無私の心を保つよう努め、臣下の諫言を歓迎しながら政治を行っていたのは、ひとえに人民の生活の安定を目的としていたからである。兵器庫の補充を奏上した臣下に対して、太宗は、今は政治に力を入れて人民の生活を向上させることこそ武器になるのだと答えている。
人民から怨みを買ってしまうときは、政治から仁義がなくなったときである。太宗は、林が深ければたくさんの鳥が棲みつくように、仁義の道を常に意識した政治を行えば、自然に人民に慕われると述べている。
いたずらに戦わない
太宗はしばしば、兵を動かすことが民力の疲弊につながり、国を滅ぼすということについて臣下と語らっている。戦争はあくまで最終手段であると見なし、いたずらに武器を取らせることを良しとしなかった。
このような太宗の思想は、様々な政治的局面で見ることができる。北方異民族の一つである薛延陀(せつえんだ)をどう対処するかという話し合いにおいて、太宗は、自らの娘と彼らの間に婚姻関係を結ばせることで、和親の道を選ぶ道を提案し、人民のためなら自分の子を惜しむことはしないと述べている。中央アジアにあった康国(こうこく)が服属を願ってきた時も、あまりに国を広げすぎては有事の際に対応できないとし、許可しなかった。
一方で、戦いから完全に遠ざかってしまえば、侵略の危険にさらされてしまう。そのため、農閑期には人民に軍事訓練をほどこし、常に備えておくべきであることも忘れなかった。
法は君主の決定よりも優先されるべきもの
「法というのは、わたし一人のものではなく、天下のものである」――国の統治にあたって、法の尊厳は守られるべきものであり、為政者の意志よりも上に位置するべきというのが太宗の考えであった。とはいえ、太宗自身も、自分と縁戚関係にある臣下に対する罰則を不当に軽いものにしてしまいそうになったことがある。しかし、司法官にそのことを咎められると、自身の誤りを認め、司法官の決定を支持した。
また、苛烈な罰を必要以上に与えることは控えるべきであると太宗は主張した。司法官は自分の業績を増やすために、罰を積極的に与えようとしがちであった。それを防ぐため、優れた人柄と公平性を持つものを司法官に任命し、妥当な判決を行ったものに対しては褒美を取らせることで、法の適応が緩やかになるように取り計らった。さらに、当時多かった冤罪による処刑を防ぐため、死刑の実行に複数の合議を義務づけた。その結果、死刑判決は大幅に激減したという。
学問を欠かさない
太宗は、読書や学問を大切にする人であった。書物には「君臣の道、父子の道、政教の道、いずれもその中に記されている」と言い、自分を磨くために臣下に書物を読み上げさせ、それを聞いていた。臣下には学問に明るく、政治の場での前例にも親しんでいて自分で判断する能力のある者を取り立てる方針を持っていた。
また、言葉は君子にとって非常に重要なものだと考えていた。隋の煬帝は行幸の際、庭に蛍が見えなくて残念だったので、灯りがわりに蛍を少々捕まえてこいと命じた。そのために数千人の人がかり出され、大量の蛍が届けられたという。君子の言葉は、ささいなことでもこのように大きな影響を及ぼしてしまうため、太宗は自らの言葉に常に気を配っていたという。